少し遠回りをして保育園の前を通ってみました。
その保育園は、こどもとよく通っていました。
よく知っている道をなぞっていくと、保育園は跡形もなくなっていました。
突如知らない場所が現れる違和感。
私はとてつもなく寂しく感じました。
思い出ごとごっそりなくなったような。
記憶補正が追いつきません。
もしくは上書きするのを拒んでいるよう。
自分のこどもの頃の印象的な出来事を誰かに話すとき、つい最近のような出来事のような気がします。
特に自分のこどもに話していると、「懐かしい」というより、私のほうがこどもの年齢に近づいたような不思議な気持ちになります。
一方で、そこに当たり前のようにあった下敷きの柄や、ペンケースのチャックの閉まる直前のカーブでひっかかることや、今手もとにはない「もの」に対しては「懐かしい」という気持ちになります。
メルカリ、インスタ、Xなどで誰かがそういった懐かしいものの写真を載せていると、じっくりと見てしまいます。
「ハートカンパニー」という名のドレッサーや、「ウインク」の鍵付き宝石箱に、応募者全員サービスの「時空の鍵」やハート形のロケットペンダント。
「そうだそうだ、こんなのあった!」と思う瞬間が、「エモい気持ち」というのであっているのかな。
エモいって言葉使ったことがないけれど、心は確かにじ~んとしているから「懐かしい」と感じることが お題「エモい気持ちになる瞬間」 なんだと思います。
どこらへんから、思い出の境界線になるのかも気になります。
今年の夏にブログを始めたので、ブログを振り返ってもまだ思い出には物足りないです。
【思い出】カテゴリーの一部、こどもの頃のよく覚えている話を貼ってみます。
●帽子をかぶった時だけワルモノになれる小学生
●無印を巡る友達同士の不穏な空気に耐えられない小学生
●コンプレックスを隠したい中学生
●帰り道がわからなくなって短歌を作る中学生
●苦手なにおいから走って逃げる高校生
これらの思い出にまつわる「写真」を見れば懐かしいと思うかというと、どうでしょう。
「過去の自分の写真」は自分そのものに変わりないから、あまり懐かしさは感じないのですが、「過去の他人の写真」となると懐かしい気持ちになります。
どうしてなのかな。
自分の目で見たものへの信頼度がすごいのか、自分のことってあまりよく見えてないのか。
「経験」や「思い出」が増えると、その「懐かしさ」の輪郭をなぞる楽しみがところどころに隠されているのかもしれませんね。
逆もしかりなので、もう一度味わうとしたら、おいしいところだけ味わいたいですね。
そんなに器用ではないこともわかってますとも。